ななめ坊や


イラスト:ゑび庵


 なぜ、このようなものを書いたのか、自分でもわかりません。
 最初は、猫が出てくるユーモア小説を書こうとしていたのです。
 ところが、いくら書いてもユーモアは登場せず、文献やネットでのリサーチ、さらには足をつかっての取材を進めるうちに、私は自分でも理解できないような現象に出会うようになり、気がついたら、このような作品ができあがっていたのです。
 まるで、何者が私を操って、この作品を書かせたかのように――竹内薫

     一

 奇妙な出来事の発端は平成十六年の正月のことでございます。
 私はテレビの「ゆく年・くる年」を見ながら、妻の華奈子がつくるてんぷら蕎麦を待っていたのでございます。実をいえば、妻の支度が遅く、私は内心イライラしながらテレビを見ておりました。
(年越し蕎麦はさ、正月が来てしまってからじゃ遅いよ。は・や・く)
 妻は、私の焦る気持ちなどには全く無頓着なようで、ゆっくりとマイペースで蕎麦を茹でておりました。居間の柱時計に目をやると、すでに十一時五五分を廻っているのがわかりました。私は炬燵(こたつ)の中にいる悪太郎(あくたろう)に悪戯を始めました。
 私が右足の親指と人差し指で悪太郎のしっぽを挟んで締め上げると、猫は、反撃に出て、私の足の甲に鋭い牙を立てたのです。
「イテテテテて。ばかやろう、猫に足ィ、咬まれちゃったじゃんか」
「あらまあ」
「支度、ちょっと遅いんじゃない? 新年になっちゃうよ!」
「できたわ」
 私が血の滲んだ右足を炬燵から出して撫でておりますと、妻の華奈子が、お盆にてんぷら蕎麦をふたつ載せて運んでまいりました。

   ずずず
   ず、ず
   ずずずず
   ず、ず、ず
 
 ふたりで蕎麦をすすり始めると、遠くから船のものとおぼしき汽笛が聞こえてきました。私の自宅アパートから一キロほど離れた横浜港に停泊中の船が、こぞって汽笛を鳴らし始めたのです。
 私は、すんでのところで年越し蕎麦が手遅れになるのを免れたことに、ホッと安堵の溜め息をついたのでございました。
「ちゃんと間に合ったじゃないの」
「ぐずぐずしてるから、縁起の悪いことになるとこだった」
「どうして縁起が悪いのよ」
「知らないけどさ」
「あなた、お参り行くの?」
「寒いんじゃないか?」
「ふーん、それじゃあ、縁起の悪いことになってもいいの?」
 妻の華奈子は、まだ若いせいか、いつもこういう調子なのです。私が何かいうたびに、言葉じりをとらえて私の行動を制御しようとするのです。哀しいかな、私は華奈子よりも弁舌が立たない。おそらく華奈子は私よりも頭がいいのです。それで、言い負かされたり、理屈で責められたりして、私は、いつも、結果的には妻のいいなりになってしまうのです。
 追いつめられると私は妻を怒鳴りつけることさえありました。
 ですが、さすがに正月早々、初詣(はつもうで)に行く行かないで妻を怒鳴るわけにもゆかず、私は、天麩羅のエビのしっぽをしゃぶりながら、
「近くまでだよ。風邪引いたら仕事にさしつかえるからね」
 しぶしぶ妻の初詣に付き合ってやることにしたのです。

     二

 私と妻は、近くの水天宮に初詣をしました。
 ただし、妻は、きちんとお賽銭を投げ入れましたが、私は、投げ入れる振りをして、実際はお賽銭は投げなかったのです。私が、タダで配られる甘酒を飲んで、そのまま帰ろうとすると、見かねたのか、妻が、
「ちょっと待ってて」
 と言って、どこかに消えましたが、すぐに戻ってきて、
「はい、お護りあげる」
 私に小さな紫色のお護りをくれたのでした。
「こんなもん、効き目ないよ」
 私は、憎まれ口をききましたが、それでも、まんざら悪い気はせず、お護りを財布の中に押し込んだのでした。
 この平沼水天宮は由緒ある神社で、天保十年に平沼九兵衛という土地の有力者が、たまたま塩田の水路に流れ着いた水天宮の御札を拾って、鎮守の神様として祀ったのが初めとされております。
 もっとも、私は、そんな起源のことなんぞ興味がないものですから、初詣を終えて、帰り道を歩きながら、妻の華奈子の蘊蓄(うんちく)話に耳を傾けていただけでございます。
「あすこ、安徳天皇が祀られているのよ、知ってた?」
「ふん、どうせ、平沼だから平氏の生き残りだとかなんとかいうんだろう」
 私の気のない返事に妻は黙ってしまい、私たちは、そのまま百メートルほど口もきかずに歩いてゆきました。
「なあ、この駐車場、なんだかおかしくないか?」
 私は、ぶるっと寒けがしたので、コートの襟をたてながら訊ねました。
「なによ、何の変哲もない百円パーキングじゃない」
 私は燐寸で煙草に火をつけて口にくわえました。
「だって、三角形だし、ちょっと小さすぎないか?」
「スペースが空いてたから駐車場にしただけじゃないの」
「そうかなあ」
 どう考えても、奇妙な地形だといわざるをえません。われわれが歩いている舗道は、交叉点からずっと大きな道沿いに続いているのですが、それが、なんの理由もなしに、途中で三角形の駐車場に阻まれてしまうのです。昼間も、よく歩行者が困惑して、三角形のどの辺を歩けばいいのか迷っているのを見かけます。
 ですが、これまで、特に気にもとめていなかったのでございます。
「やっぱ変だよ。だいたい、商店街って、どこでも駅を中心にして両方向に伸びていることが多いだろう?」
「そうね」
「じゃあ、この商店街の中心の駅はどこにあるんだ?」
 どうしても、この三角形の駐車場が平沼商店街の中心にあたるように見えるのです。たしかにここは京急の高架が走っていますが、どこにも駅らしきものは見当たりません。
 生ぬるい風が吹いて、私は、また寒けがしました。
 私は煙草を棄てて革靴の裏でぎゅっと踏み消しました。
 その拍子に、私は、さきほど華奈子からもらった平沼水天宮のお護りが足もとに落ちているのに気がつきました。
「あれ、煙草を出したときに落としたかな?」
 私は、その紫色の小さなお護りを拾い上げて手にとると、ふたたび財布の中に突っ込みました。
(お客さん……)
 声が聞こえたような気がして、華奈子の顔を見ましたが、妻は、黙って私の顔を見つめております。
「どうしたの?」
「いや、空耳かな」
 なんとなく後ろ髪を引かれるような想いで、その場をあとにしたのでした。
 
     三

 その数日後、私は、三角形の駐車場の隣にある自動販売機で野菜ジュースを買おうとしました。ところが、出てきたのは暖かいミルクココアだったのです。てっきり機械の故障かと思って、
「ちくしょう」
 と呟きながら缶を開けようとしたとき、突然、私の「世界」がグラリと傾きました。
 一瞬、立ちくらみかとも思いましたが、別に目の前が暗くなったわけではなく、単に視界が傾いているのです。
 下を見ると、ちょうど左手の下あたりの地面がぬめりと濡れて光っております。ミルクココアをこぼしたのかと思いましたが、なんだかちがうような気がしました。
 そのとき、
(ななめになりすぎちゃったよ)
 という声と、
(ふふふ)
 という笑い声が聞こえたのでした。

 実をいえば、それ以来、私のゆく先々で、この不気味な「ななめ坊や」が出没して悪さをするようになったのです。
 最初のうちは、正直いって、気味が悪くて困りました。
 夜、セルフサービスのガソリンスタンドで給油していたら、突然、世界が傾いて、スタンドのヒューズが飛んで真っ暗になったこともありました。スタンドのおやじさんが出てきて、
「おかしいなぁ、なんでショートしたんやろ」
 と首を傾げておりますと、
(ななめになりすぎちゃったよ・・・ふふふ)
 という声が聞こえましたが、どうやら、その声は私にしか聞こえないらしく、おやじさんは首をひねって腕組みをしたままでした。
 そして、ココアのときと同じように、私の左手の下には、まるで給油ホースからガソリンが洩れたかのように、ぬめりとした黒い水たまりができていたのでございます。
 あるいはウチで私がハロゲンヒーターのスイッチに触ったとたん、バチっという音がして、壊れてしまったこともありました。そのときも、
(だって熱いんだもの)
 というななめ坊やの声が聞こえたのです。
 でも、この声は、どうやら私にしか聞こえないようで、台所で料理をしていた華奈子は、ストーヴが壊れたのには文句を言いましたが、そのまま煮物を続けていたのです。
「おまえがヒーターのスイッチを入れたがらないからオレがやってんじゃねえか」
 私は、ストーヴが壊れたのを、なぜか機械類に触りたがらない華奈子のせいにしました。
 実際、妻の華奈子は、機械音痴もはなはだしく、若いくせに携帯電話ももたず、パソコンは全くわからず、テレビさえもほとんど見ようとしません。そのくせ、どこからか旧式のラジオを仕入れてきて、古くさい音楽番組になんぞ耳を傾けていたりします。

 ある夜、私がいつものように仕事帰りにほろ酔い気分で三角形の駐車場を横切ろうとすると、
(ふふふ)
 ななめ坊やの声が聞こえました。
「今日もジュースは買わせてもらえないのかい」
 私は酔いも手伝ってか、あるいは、ななめ坊やの悪戯に馴れてしまったのか、大胆にも坊やに話しかけてみたのです。
 すると、
(うん、アンタ、ななめになりすぎちゃったから)
 坊やの返事が聞こえました。
「困ったな」
(ねえ、お客さんになってよ)
「お客さん?」
(そう、お客さんを連れて帰ると褒められるんだもの)
「ふーん、坊やのおウチはどこ?」
(ここだよ)
「ここ? 駅前かい?」
(ううん、駅の中だよ)
「駅の中に人の住む場所なんかあるのかい」
(少しね)
「いいよ、お客さんになってあげよう」
(電車に乗っていくんだよ)
「そうかい、いいよ、お客さんになってあげる。でも、もう今日は遅いからお帰り」
(ううん、これから行こうよ)
「だって、もう電車は走っていないよ」
(お客さんを連れて帰るときは電車が走るんだよ)
 私は、ちょっと怖くなりました。足早にその場から逃げようとすると、いつものように世界がななめになった感じがして、私は足がもつれて倒れてしまいました。
 すると、
(ふふふ、逃げても無駄だよ)
 という笑い声が聞こえました。
 私は、ますます怖くなって、ほうほうの体で家まで逃げ帰ったのでございます。

     四

 それから数日後、品川から京浜急行の満員電車の座席に座って、うつらうつらしていると、

   よこはまー、よこはまー

 という車掌の声が聞こえてきました。乗客たちがいっせいに降りる音がしました。
 急に空気が澄んできました。
 私は椅子に座って目を閉じたまま、
(次は戸部か)
 ぼんやりと考えておりました。
 それからしばらくして、また、うつらうつらしていると、ふたたび車掌のアナウンスが聞こえました。
(あれ? もう着いたか)
 急に目が醒めた思いで顔を上げると、閑散とした車内は、私のほかには赤ん坊をあやしている母親と目深に帽子をかぶった背広姿の紳士とおかっぱ頭の少年だけになっておりました。
 酒を呑みすぎて、頭がボーっとしていたせいか、かなり足がふらつきましたが、私がプラットホームに降りると、電車の扉は閉まって、ゆっくりと走り去ってゆきました。
「あれ、おかしいな」
 私は目をこすりました。いつも通勤でつかっている戸部駅ではないように見えたからです。
「どうしたの、おじさん」
 見ると、いつのまにか、おかっぱ頭の愛らしい少年が私の傍らにいて、つぶらな瞳で私のことを見上げていたのです。
「ボク、ここは戸部駅かい?」
「ううん、平沼駅だよ」
「平沼?」
 私が住んでいる地域は平沼といいますが、駅といえば、相鉄線の平沼橋駅があるだけで、平沼という駅名は聞いたことがありません。
「平沼橋かい?」
「ちがうよ、平沼駅だってば」
 徐々にはっきりしてくる意識とともに、私は、自分の周囲に異変が起きていることに気づきました。たしかに戸部駅ではありません。プラットホームもずっと小さくて、それこそ人もすれちがえないほどの幅しかないのです。
 この駅には屋根もなく、いや、それこそ電燈だってありゃしません。
 そして、なぜか、世界からは色が消えて、すべてが白黒になっているのです。
 私は自分が異界に迷い込んだことを知りました。
 気がつくと、少年は、私の左手をぎゅっと握っているではありませんか。
 少年にしては、物凄く強い力で、私は自分の左腕が抜けてしまうのではないかと思って、なんだか怖くなりました。
「痛いよ、ボク、手を放しておくれ」
「いや」
「だって、痛いんだ」
「僕だって痛いよ」
「え?」
「熱いよ、咽が渇いたよ」
 少年が握っている私の左手は、ますます重たくなり、私は、もうまっすぐに立っていられなくなりました。
「やめてくれ」
「だって、お客さんになってくれるって言ったじゃないか」
「え?」
 私はますます怖くなりました。
 とても子供とは思われないほどの怪力で、ななめ坊やは私をプラットホームの端にある階段へと引きずってゆこうとします。私は必死になって足を踏ん張りましたが、私のからだは左に傾いたまま、

   ずずず
   ず、ず
   ずずずず
   ず、ず、ず

 夜のしじまに革靴の底と風雪に劣化したコンクリートが擦れ合う音だけが響いております。
 気がつくと、ななめ坊やは、いつのまにか、三角形のずきんのようなものをかぶっているではありませんか。
 そして、坊やの歩いたあとには、ゴム製の運動靴の跡が――。
 いや、靴の跡だけではありません。坊やのからだは、いつのまにか、ぬめりとした感覚で濡れていて、まるで頭から血の雨を浴びたかのようでございました。
「ひぃー、やめてくれー」
 私は叫んでいるのですが、ななめ坊やは、
「お客さんがきた」
 と、小さな声で呟きながら、私を引きずってゆきます。
 そのとき、運よく反対方向から上り電車が来るのが目に入りました。
 私が、手を振りほどこうとして暴れると、血で濡れていたのが幸いして、私の手はスルリとななめ坊やの手から離れました。
 私は、必死の思いで線路をまたいで反対側のプラットホームに渡りました。
 でも、考えてみると、ここは駅ではないのだから、本当は電車は停まらないはずなのです。私は、電車が目の前を素通りして行ってしまうのではないかと気が気ではありませんでした。ですが、滑り込んできた電車は、ゆるやかに停車すると、ドアが開いたのです。私は、すかさず中に駆け込みました。
 電車のドアが閉まって動きはじめました。
 窓から反対側のプラットホームを見ると、ななめ坊やは、頭に三角形のずきんをかぶったまま、哀しそうな目でこちらを見つめておりました。
 私は、自分が酔っぱらっていたので、おかしな幻影を見たのだと思いました。私は、猛烈に咽が乾いていることに気がつきました。
 やがて、

   よこはまー、よこはまー

 車掌のアナウンスが聞こえました。
 気がつくと、私は横浜駅のプラットホームに倒れていて、駅員さんに助け起こされたのでした。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「あ? ええ、ちょっと」
「危なかったですよ、ホント、お酒もほどほどにしてください」
「は?」
 私の周囲には人だかりができていました。
 目の前には、ズタズタに切り裂かれた私の鞄がおいてありました。
「もうちょっとで、鞄じゃなく、アナタがこうなってたんですよ。念のため救急車を呼びましょう」
「あ、すみません、酔って足がもつれただけですから」
「じゃあ、ご家族をお呼びしましょうか」
「すみません、本当に大丈夫です」
 ラッシュアワーということもあり、駅員も忙しかったのか、気をつけて帰るようにと念を押されて、私は解放されました。
 私は、酷く咽が乾いていたことを思い出し、水道の蛇口に口を当てて、ガブガブと水を飲みましたが、気がつくと、左手は、べったりと血で濡れたままだったのでございます。私は、あわてて、両手を擦るようにして、血を洗い流したのでございます。
 駅を出ると、私は、そのまま徒歩で「裏横浜」界隈を横切って、例の三角形の駐車場までやってきました。
 非常な恐怖があったにもかかわらず、なぜか、私は、吸い寄せられるように、さきほど少年と別れたところまで戻ってきてしまったのです。
 まるで足が自動的に動いているような不思議な感覚でございました。
 そこで、薄暗い外燈に照らされて、私は小さな碑をみつけたのです。それは、ちょうど駐車場の片隅に立っている廃虚となったビルの入り口にありました。

   旧平沼駅正面玄関跡
   横浜大空襲にて消失

 そのとき、私は、急に気がついて、華奈子からもらったお護りを財布から取りだしてみました。

   平沼−横浜

 なんと、お護りだとばかり思っていたものは、古くなって変色した鉄道の切符だったのです。今はもうない、厚手のボール紙でできた切符です。外燈の灯りに照らしてみると、かろうじて、

   昭和二十年五月二九日

 という日付が読めました。そして、驚いたことに、三八万円という値段が書いてあるのです。
 いったい、どういうことなのでしょう?
 上を見上げると、廃屋となったビルの屋上に、たしかに小さなプラットホームらしきものがありますが、ビルの窓は全て、今どき珍しいベニヤ板で塞がれており、ビルの外には、どこにも階段はなく、また、ななめ坊やの姿もないようでした。

     五

 ウチに帰った私は、先日来のななめ坊やの出没と電車で異界に引き込まれそうになった事の顛末(てんまつ)を妻の華奈子に詳しく話して聞かせました。
 これまで、じっと独りで抱え込んできたせいか、私の話は、なんだか告白めいて、だんだん熱を帯びてきたのですが、華奈子は、なぜか押し黙って、哀しい顔で私を見つめたままなのです。
「おい、なんとかいったらどうなんだ? それとも、オレの頭がおかしくなったとでも思ってるのか?」
「そんなことないわ」
 華奈子はようやく蚊の鳴くような声で返事をしました。そして、ふたたび黙ったまま、炬燵の上で丸くなっている悪太郎の頭を撫でています。
「明日、水天宮に行ってお祓いをしてもらおう」
「え?」
「お祓いだよ、厄除けだよ」
「でも」
「でもって、なんだよ。このままオレが呪い殺されてしまってもいいの?」
「ななめ坊やに悪気はないと思うわ」
「なんでおまえにわかるんだ」
「それは……なんだか、そんな気がするだけ」
「悪気がないなら、お祓いされたって困らないだろ?」
「でも、可哀相じゃない」
「なあ、ななめ坊やのせいで、オレは電気人間になったり、視界が傾いたり、幽霊電車に乗せられたり、散々な目に遭ってるんだ」
「ちがうのよ」
「どうちがうんだ」
「あなたの運勢がななめになってしまっただけなの。坊やが来たからななめになったわけではないの」
「おまえ、いったい、なに言ってるんだ」
「ごめんなさい。その切符は、私が買ってあげたの」
「おまえが買った?」
「ええ」
「三八万円て書いてあるぞ」
「ごめんなさい」
 私は、華奈子が何をしたのかがわかり、急いで箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)を開けて預金通帳をたしかめてみました。急に怒りがこみあげてきて、私は、華奈子の頬をぶちました。
「馬鹿! おまえ、誰かに騙されたんだよ。一緒に海外旅行に行こうって貯めてた金だろう……誰に払ったんだ!」
「お賽銭よ」
「え?」
「小切手にしてもらってお賽銭箱に投げ込んだの」
「おまえ……」
「命の切符だったのよ」
「命……切符?」
「そう、本当は、今日、あなたは横浜駅で線路に墜ちて死ぬはずだったの」
「なに言ってるんだよ」
「でも、その切符があったから、戻ってこられたのよ」
「なに、気味悪いこと言ってんだよ。そんなことあるはずないよ!」
「じゃあ、どうして、あの子があなたに憑いてるの?」
「わかった。とにかく、明日、水天宮にお祓いしてもらいにゆくからね」
「どうしてもお祓いに行くの?」
「ああ、おまえが行かないならオレ独りでゆくからいいよ」
 私は、華奈子が誰かに騙されて、なけなしの貯金をおもちゃの切符と引き換えたのだと思いました。お賽銭箱に投げ込んだなんて嘘に決まっています。
 私はなんだか急に情けなくなりました。
 ふたりが喧嘩しているのが哀しかったのか、猫の悪太郎が、哀しそうな目で私をみつめて、消え入るような声でにゃあと鳴きました。
 私は、寝床に入ってからも、ずっと華奈子に背を向けたままでした。
 夜中に華奈子が啜り泣くような声を聞いたような気もするのですが、私がぶったから悲しくなったのか、ななめ坊やのことを可哀相に思ったのか、それとも私の空耳だったのか、さだかではありません。

     六

 翌朝、私は独りで寝床を抜け出すと、朝の散歩がてら、水天宮まで歩いてゆき、神主さんに一部始終を説明して、お祓いをしてもらうことにしました。「切符」もお祓いをしてもらって、水天宮にお返ししました。
 お祓いが終わって、私は神主さんと向き合ってお茶を飲んでおりました。齢九十とも百ともつかない神主さんは、とても痩せていて、骸骨のような白い肌をしておりました。手の甲からは青い血管が浮き出しておりました。
「あなたは引っ越してらして間もないからご存知ないのでしょうが、あの小さな三角形の駐車場は、元は京急平沼駅前のロータリーだったのですよ」
「駅前ロータリー?」
「ええ、この辺一帯は、古河電線、東京ガス、横浜樹脂といった工場が住宅と混在していたせいか、第二次大戦末期に酷い空襲に遭いましてな、平沼の駅舎も焼けただれて、大勢の死人が出ましたのじゃ。今では当時のプラットホームと駅前のロータリーの形だけが残っておりますな」
「じゃあ、私に『お客さんになってよ』と言って悪戯をしたななめ坊やは……」
「もしかしたら、空襲で行方不明になった子供だったのかもしれませんな」
「ななめ坊やは、私に何をして欲しかったのでしょう」
「さあ……もしかしたら、独りで淋しかったのかもしれませんねぇ」
 私は、なんだか、釈然としない気持ちで水天宮をあとにしました。

     七

 ウチに帰って、玄関から居間にあがると、いつもなら台所で料理をしている華奈子の姿がありません。
「オーイ、お祓いをしてもらってきたよ」
 ですが、ウチの中はシンと静まりかえって、物音一つしません。それどころか、いつも鈴を鳴らして飛び回っている猫の悪太郎の姿も見えないのです。
 さきほどまで私と華奈子と悪太郎が寝ていた寝床は、きれいに布団がたたまれて、敷布団はベランダに干してありました。
 ですが、華奈子も悪太郎も、どこにも姿が見えないのです。
 私は、いつのまにか、ウチじゅうから華奈子と悪太郎の痕跡が消えていることに気がついて愕然としました。
 洋服ダンスにはアイロンのかかった私の背広やワイシャツがかかっていましたし、下着やTシャツもきれいに折り畳んでしまってありましたが、華奈子の衣服は一枚もありません。
 悪太郎の食事のためのお皿や水を飲むためのお椀、さらにはトイレの砂の入った函も、どこにも見当たりません。
 マグカップやお箸やスリッパなども、私のぶんはあるのに、華奈子がつかっていたものが何ひとつ残っていないのです。
 私は気が狂ったように家じゅうを探し回り、あげくの果てには、警察に失踪届を出そうかとも思い、大家さんのところに駆け込みました。
「湯川さん、こんな時分、いったい、どうなすったんです」
「あの、妻が、妻の華奈子が突然、いなくなってしまったのです」
 ところが、大家さんは、まるでおかしなものでも見るかのように、黙って、じっと私の顔を眺めているのです。
「猫の悪太郎ごと消えてしまったのです」
「華奈子……さんと猫の悪太郎ですか?」
「ええ、今朝、水天宮に行く前までは、たしかに妻も猫も家にいたのです。ところが、戻ってみると家の中はもぬけの殻で……家出をしたのかもしれませんが、もしやと思いまして」
「ちょっと、おあがんなさい」
 私は、大家さんに言われるままに家にあがらせてもらいました。居間に通されて、お茶を出してもらいました。
 やがて、大家さんは、古びたアルバムをもってきて、卓袱台の上に拡げました。
 そこには、一枚の黄色くなった写真がありました。
 そこには、小さな旅館の玄関を背景に、華奈子と猫の悪太郎と……驚いたことに、旧平沼駅のプラットホームで見かけたななめ坊やが笑いながら写っていたのです。
「これは……」
 大家さんは、私と向かい合って座ると、ゆっくりとお茶をすすってから話し始めました。
「先の戦争で亡くなった私の妹と弟なのです」
「え?」
「妹の華奈子は女子挺身隊(ていしんたい)で奉仕活動中に被災し、弟は、姉にお弁当を運んでゆく途中、平沼で……むかしは、あすこに駅があったのですがね……焼夷弾を受けて……ふたりとも若くして命を落としたのです」
 このとき、私は、華奈子について、何ひとつ知らなかったことに気づきました。
 そう、なんとも不思議な話ですが、私は華奈子と長年連れ添ってきたように思い込んでいたのです。でも、平沼に引っ越してくるまで、私は華奈子と別の場所で一緒にいた記憶がありません。
 大家さんの話では、華奈子は、被災当時十八になったばかりだったそうです。そして、ななめ坊や……健太くん……は八歳だったそうです。
 昭和二十年の五月二九日の大空襲で横浜は焦土と化したのです。
 飛来したB二九は五百機以上、落とされた焼夷弾は五十万発近く、そして、死者だけで六千六百人を数えたのです。
 でも、戦後半世紀がたった今、そのことを覚えている人はほとんどおりません。
 私の住んでいるこのアパートは、もとは、大家さんと華奈子とななめ坊やと猫が一緒に暮らしていた木造の旅館だったそうです。
 もしかしたら、華奈子は、生前の自分のウチに下宿し始めた私を見て、運勢が大きく傾いていて、死期が迫っていることがわかり、助けてくれようとしたのかもしれません。
 理由はわかりませんが、もしかしたら、華奈子は、私のことを好いていてくれたのではないでしょうか。だから、私を騙して、一緒に住んでいたのではないでしょうか。そして、私が電車に轢かれる運命から救ってくれたのではないでしょうか。
 私も華奈子のことを愛しておりました。
 猫の悪太郎もかわいく思っておりました。
 そして、ななめ坊や……健太くんにしても、なんだか、私に危害を加えようとは思っていなかったように感じたのです。
 私は、華奈子や悪太郎や健太くんの哀しそうな目つきを思い出して、もう、居ても立ってもいられなくなりました。
 私は、大家さんのところを辞去すると、汗びっしょりになりながら、水天宮まで駆けてゆきました。そして、驚く神主さんを説き伏せて、さきほど納めたばかりの「切符」を半ば奪い取るようにして返してもらったのです。
 私は、そのまま旧平沼駅、例の三角形の駐車場まで駆けてゆきました。
 途中、道路沿いの柳の木が風に吹かれて大きく揺れているのが見えました。
 気がつくと、私は廃屋となった四角いビルの前に立っておりました。
 左手で切符を握りしめて、封鎖された玄関の戸に手をかけました。
 驚いたことに、私がドアノブを廻すと、釘で打ち付けられているはずの扉がスッと音もなく開いたのです。私が中に入ると、昼間だからか、朽ち果てた建物の内部は、ベニヤの隙間から洩れ入る光でうっすらと様子が見てとれました。
 埃だらけの床は、もう何年も人間が足を踏み入れていないことを物語っておりました。
 正面を見ると、上の階へと続く細い細い階段がありました。おそらく、この階段を上がったところが、ビルの屋上になっていて、そこからプラットホームに出られるのでしょう。
「華奈子、この切符、鋏(はさみ)が入ってないから、まだつかえるだろう?」
 私は、そう妻に語りかけて、あらためて切符を強く握りしめると、プラットホームへと続く階段を上り始めました――。



附記

 私の仕事場がある界隈は「裏横浜」と呼ばれています。すぐ近くにある旧平沼駅は、空襲時のプラットホームがそのまま残っているのですが、酷く荒れ果てて、電車に乗っている人も気がつかないありさまです。昭和二十年五月二九日の大空襲で横浜は一度全滅したのです。

(http://www.history.independence.co.jp/ww2/raid/ca02.jpg)

 私は横浜が好きでした。ななめ坊やは、実際に、私の周囲に出没していました。
 そうそう、もしかしたら、読者のみなさんは、命の切符がなぜ三八万円なのか、疑問に思われたかもしれません……それは……実は……私自身の命の値段だったのです――竹内薫